Conversation 03

Guest穂村弘|歌人

Profile

穂村弘

ほむら・ひろし/1962年生まれ。歌人。北海道札幌生まれ。上智大学文学部英文学科を卒業後、システムエンジニアとして就職しながら、1990年に第1歌集『シンジケート』(沖積舎)でデビュー。「ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は」他が、中学及び高校の国語教科書に掲載された。日本経済新聞と雑誌『ダ・ヴィンチ』にて読者からの短歌投稿欄の選者を務める。エッセイ、評論、絵本、翻訳などでも活躍。

歌人・穂村弘と語る
表現を考えるためのいくつかのヒント

対談第3回目は、歌人でエッセイストの穂村弘。「サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」などのユニークな短歌で知られる。もっとみんなが表現をできる世の中になってほしいと願うぼくのりりっくのぼうよみが、穂村弘さんに表現を考えるためのヒントを聞いた。

  1. 1. 才能がなくても表現はやめられない?
  2. 2. いい表現ってなんですか?
  3. 3. 表現の根拠を持たない場合は?
  4. 4. 異次元のカニクリームコロッケ?

◇才能がなくても表現はやめられない?

ぼくりり

“表現のハードルが下がったのに、見てもらうハードルは高くなったんじゃないかって思うんです”

穂村

“表現そのものは才能がなかったとしてもやめることができないから残酷なんだよね”

ぼくりり:よろしくおねがいします。今回、ぼくがメディアを作ったひとつのきっかけとして、色んな人に新しいことにチャレンジしてほしいという思いがあります。いまは、音楽をつくる機材なども簡単に手に入りますし、SNSなどの登場で詩や短歌だって発表しやすくなっていますよね。表現のハードルが下がっているので、みんなに挑戦してほしいなあと思って。

穂村:いやあ、ぼくりりさんにはわからないよ。

ぼくりり:ええっ(笑)

穂村:というか、このメディアのことはその通りなんだけど、18歳でこんなふうに世に出た人にはわからない心理があると思う。例えば、ほんとに表現をはじめてしまったら、自分が天才じゃないことが証明されてしまうという怖れ。実際に何かをする前は、自分は天才にちがいないと勝手に心の奥で思っていられるのに。そして、そのまま時間が経ってゆく焦り。

だから、もちろん表現のハードルが下がるのはいいことなんだけど、同時にそれで苦しむ人もいると思うんです。言い訳ができないし、やるかやらないか、それはやらない自分だけの問題になるから。音楽や映画や小説に詳しくなればなるほど、作る側にまわるのが怖くなる。はじめるのは怖いし、その怖さに耐えられる人だけが残って、さらに耐え続けられる人だけが「アーティスト」になる。当たり前といえば当たり前だけど……。ぼくりりさんは、どうやって恐怖を乗り越えたんですか?

ぼくりり:たしかに、ラップをはじめようと思った時に、ぼくに(ラップの)知識はほとんどなかったんです。「こういうラップじゃなきゃいけない」みたいなものがなかった。

穂村:楽器は弾けるの?

ぼくりり:なんにも弾けないです。

穂村:それは時代と形式に恵まれたってことですよね。まず挑戦する勇気があって、今だから世に出られた。

ぼくりり:ぼくもそう思います。自分の趣味がたまたま認められたから、そこに生存者バイアスがかかっているのは分かりつつも、「いいものじゃないといけない」呪縛が発生していると思うんです。最初の一歩が下手くそでもいいのに。表現のハードルが下がったのに、見てもらうハードルは高くなったんじゃないかって思うんです。

穂村:下手でもいいと言われても、どうしても怖いんです。毎日聴いていたTHE BLUE HEARTSの甲本ヒロトに「下手でもいい。夢はかなう」って言われても、学生時代のぼくはどうしても信じられなかった。才能があって、外国人みたいにカッコいい顔で、足が長い彼だから夢は叶ったんじゃないかなって思ってしまったんです。

ぼくりり:ぼくは根がポジティブなので、音楽とか、詩とか、短歌とか、もしかしたらゴルフとか、わからないですけど、いろんなところに才能が眠っている可能性があると思うんです。だから、ダメだったら次に行っちゃえばいいじゃんと思うのですが。

穂村:たしかにその通りなんだけど、表現そのものは才能がなかったとしてもやめることができないから残酷なんだよね。今からぼくが柔道家とかサッカーの選手になろうとしても無理ですよね。スポーツなんかの場合は年齢の限界もあるし、向き不向きもあるので、自分には無理だとあきらめられる。或いは、楽しみでやります、とか。でも、表現だけは、もしかしたら自分がまだ何かに出会っていないだけかもしれないって思えてしまう。

ぼくはそのことにすごく苦しんで、何もできないままずっと時間だけが過ぎ、最終的に短歌までたどり着きました。短歌の歴史は古いけど、現代の表現ジャンルとしては弱くてお金にもならない。だけど、溺れるものは藁をもつかむで、それだけを頼りに何十年もやり続けているんです。だから、音楽という強いジャンルであっさり才能を開花させたぼくりりさんのような人は、ぼくからすれば羨ましいを超えて「一回雷が落ちたらいいのに」って(笑)。

ぼくりり:「お前にわかってたまるか!」って思われてるのかな。

◇いい表現ってなんですか?

ぼくりり

“今の社会や人々のふるまいを観察して、それを見て行く中である種のレポートを書いている感覚です”

穂村

“本質的には一度だけの奇蹟を何度も起こせる人が、ファンタジスタでありアーティストなんじゃないかって”

穂村:歌人の石川啄木っているでしょ? 彼は数日間でのちに自分の代表作となる歌のほとんどを作っているんです。ということは、その数日の波が来れば自分も啄木になれるかもしれないと思うと、やめられないもんね。それも残酷。

以前、又吉直樹さんと対談したとき、彼はめちゃくちゃ忙しいからすごい寝不足なのに、夜寝ちゃいけないような気がして、朝の4時まではずっと起きているらしいんです。そこまで起きていれば何かインスピレーションが得られるかもしれないと考えてしまって、寝られないんだって。ぼくりりさんはどこからインスピレーションを得るんですか?

ぼくりり:基本的に論理が先ですね。今回は『Noah’s Ark』というタイトルをまず決めて、次に、じゃあ聖書にでてくる洪水って今の社会では何にあたるんだろう?という疑問が生じます。で、それが情報だなあと考えたら、次に情報の洪水に飲まれている状態ってどういうことだろう、というふうに繋がり、そこからぼくたちはその濁流に飲まれて自由意志を失っていたり、一時の感情に支配されているときがあるなあと考えていったんです。

例えば、二度寝はその最たるものだと思うんです。本当は早起きしてディズニーランドに行きたいはずなのに、寝たい気持ちに逆らえない。本来もっている願望が刹那的な感情に負けてしまったりします。ほのぼのした例ですが……。そんなふうに曲をつくっているので、ぼくにはインスピレーションはなく、ロジックしかないんだと思っています。今の社会や人々のふるまいを観察して、それを見て行く中である種のレポートを書いている感覚です。

穂村:なるほど。でも、『Noah’s Ark』には、「二度寝してディズニーランドに行けなかった」みたいな歌詞はないよね。

ぼくりり:たしかにないですね……。固有名詞を入れずに表現して、ひとつのストーリーに仕立て上げようとしているからでしょうか。

穂村:固有名詞がないから、〈この刹那だけがぼくをぼく足らしめる一瞬であれ〉(「shadow」)とか、〈不可逆の砂時計に意味も分からずに踊らされる 生まれ落ちた咎の故に消える命〉(「Water boarding」)のような表現が出てくるんですね。

ぼくりり:改めて歌詞を読み上げられると恥ずかしいですね……。ちなみに、ぼくの歌詞を「文学的」と評す人もいるのですが、ぼく個人としてはあくまで音楽に付随するものなので、文字として単独で美しいとは感じていません。もしかすると、この固有名詞を使わないことが文学っぽいと思われるのかなと思うのですが。

穂村:「刹那」「不可逆」「咎」なんていう言い回しが、文学寄りのボキャブラリーに感じられるのかもしれませんね。

ぼくりり:単語レベルで反応しているということですか?

穂村:たぶん。記述されているテキストそのものというよりも、〈生存 全能 全肯定の歪んだパラレルワールド〉(「Noah's Ark」)をあの言い方で歌われると、とっさに聞き取れないんですけど、カッコいいと感じてしまう。それはテキストレベルでは予測できない、実際に聴かないとわからない魅力ですよね。

文学的というなら、情報の洪水と、「ノアの方舟」の神話を結び付けたこと自体、そう感じます。あと、印象的だったのは〈やり直せるなんて知らなかったんだ〉(「after that」)というフレーズ。文脈上「やり直せる」とか「やり直そう」とか「やり直せ!」でもいいし、その方が強い言い方なはずなんだけど、〈やり直せるなんて知らなかったんだ〉とすることで、弱さや揺らぎが表現されている。その感触が逆に刺さってくるというか。

ぼくりり:穂村さんの中で「いい表現」の基準ってなんですか?

穂村:料理に例えると、サラダみたいな表現はダメだと思います。細かく切って、上手に混ぜてきれいに作っても、そこには本質的な変化が起こっていない。でも、野菜炒めとか、発酵食品とかにはそれがある。たくあんは元の大根には戻れない。つまり、不可逆性なんですよね。加熱や発酵によって、素材がブラックボックスを通過して、不可逆的な変化を起こす。それが本当の表現なのかな、と。どんなにきれいな野菜サラダより、たくあん的なものがいいように思います。

(※つけものたちは生の野菜が想像もつかない世界へゆくのでしょうね 穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』)

でも、加熱や発酵によって起こることは、表現者自身にとってもブラックボックスなんです。そこで何が起きたのかは後から説明できませんから。でも、サラダは説明ができる。どんなに細かく切ってもキュウリはキュウリでトマトはトマト。つまり、「説明できる部分」は「表現」じゃない。だから、調子が悪いときにはすごく焦るんですね。今回はどうも火力が弱い、発酵も足りない。その状態でも作品を出さざるを得ないときがある。でも、そういう状態でつくったものって、すぐにバレちゃいますよね。

ぼくりり:他人の作品を見ていてもわかりますか?

穂村:見慣れていないジャンルはわからないですけど、短歌ならわかりますよ。サラダよりは発酵食品のほうが底知れない感じがあって。そして、もしもブラックボックスの部分を説明できてしまったら、表現者っていらなくなるんじゃないかな。再現できないものこそが表現で、才能がある人は何度もそのゾーンに入れるから結果的に再現をしているように見えるけど、じつはそのたびに一回性のブラックボックスを通過している「異常者」なんですよ。

サッカーの選手でも、「ファンタジスタ」と呼ばれる人たちがいますよね? 彼らが最も得点を取るとは限らないけど、なぜか、その人がボールを持つとときめきがある。本来はグラウンドの広いスペースにパスを出すほうが合理的でも、わざわざ狭いところを通したり。それが相手の股の間だったりしたら、さらに観客はときめきますよね。非合理的なんだけど、ときめくもの。本質的には一度だけの奇蹟を何度も起こせる人が、ファンタジスタでありアーティストなんじゃないかって。

ぼくりり:なるほど……。

穂村:ぼくは『ダ・ヴィンチ』という雑誌で「短歌ください」という、一般読者から短歌を募集する連載コーナーをずっとやっているんです。そこには面白い短歌がたくさんあって、つまり、プロじゃなくても一瞬だけなら天才になれるんですよ。加熱や発酵を呼び起こす特別なテンションをもった時、31文字という制限の中の1回だけ奇蹟が起こることがある。それで食べていくことができなくても、その瞬間はアーティストなんでしょうね。

ぼくりり:急に、自分がやっていることが「サラダ」なんじゃないかと不安になってきました……。

◇表現の根拠を持たない場合は?

ぼくりり

“ぼくがやっているラップも、聴くうえでの快感をもたらすために韻を踏みます。それはある種の制約ですよね”

穂村

“定型の約束なんて破ってもいいんだけど、敢えて破らないことで神様からインスピレーションをもらえる”

ぼくりり:もうひとつ穂村さんに聞きたいことがあるんです。ぼくは普通に育ってしまったので、歌詞にしても説得力を持ったことが書けるのかと不安に思うことがあります。例えば、ぼくがめっちゃ好きなラッパーの中には、両親がいないとか、麻薬の密売をしてオーストラリアの刑務所に閉じ込められたといった過去を抱えている人がいます。そういった人たちの言葉はすごく重い。「密売はしないほうがいい」とか「地獄を見た」とか、そういう言葉の説得力が、捕まった人とぼくでは全然違うじゃないですか。そういったバックボーンの有無に関してすごくコンプレックスがあるんです。

穂村:表現の根拠の話ですね。ぼくもすごく不安ですよ。自分には何もないなと思って。例えば、戦争を経験した人が自分の体験を書くと、それは心揺さぶるわけです。しかし、特に大きな体験や不自由がない人にとっては、そんなモチーフはないですよね。

でも、考えてみると、バスケットボール選手や100メートルのスプリンターには、そんなモチーフはいらないんですよ。それに、実生活が普通であるメロディーメーカーもいるわけでしょう? なぜか言語表現に関してのみ、「ただ言語感覚がいい」というのは許されないわけ。現実との繋がりというか、地上の意味の重力から自由になれない。たぶん不純なんですよ、言葉は。

ぼくりり:穂村さんはいつも書くときにはどうされるんですか?

穂村:困りますね。強い動機をもった表現に圧倒されてしまう。ぼくには何もない、「密売やめろ」って言えないぞ、という。仕方がないので、「圧倒されている」ということを書くんです。本当に表現のすべてがそこで決まってしまうのか、実際に試すしかない。あとは、バカみたいな、「インターネットがひけないからネットカフェに10年通った」みたいな話を書く。

ぼくりり:ウケる。

穂村:でも、しょうがないもんね。

ぼくりり:何もないですもんねえ。

穂村:そういうわけで、普通に育ったお坊ちゃんで、優れた言語表現をしている人って世の中にいるのか、って探したことがあってね。

ぼくりり:おわ、超知りたいです。いるんですか?

穂村:谷川俊太郎さんがそうなんだよね。お父さんが有名な哲学者で、彼はお母さんに愛されて育った一人息子。それで、ご本人にこの問題について聞いてみたら、自分はリアクション型だって言うんですよ。一般には大きな問題にコミットして世界に入って行くことが才能だと思われているけど、自分はいつもそこから距離を取って、あるアクションに対してリアクションを取る、と。

ぼくりり:リアクションのための材料はどこにあるんですかね?

穂村:例えば、依頼者からテーマや題を与えられてそれに反応するとか。短歌でいう題詠ですね。それもない場合は、長さとかのフォーマットを指定してもらったり、自ら設定したりするそうです。つまり、形式がモチーフになるみたいなことですね。

ぼくりり:型を決めてからやるんですね。そう思うと、穂村さんがやられている短歌という表現の世界も音数がきまっていますし、ぼくがやっているラップも、聴くうえでの快感をもたらすために韻を踏みます。それはある種の制約ですよね。

穂村:ええ。定型も韻も、一種の「外部」ですね。本当はここで8音使いたいけれど、5・7・5で8音は使えないから、嫌でも7を使わないとけない。それは「外部」、イコール「神の声」なんです。定型の約束なんて破ってもいいんだけど、敢えて破らないことで神様からインスピレーションをもらえる。自分の内側には存在しなかったはずの次元が開かれることがある。韻もそうですよね?

ぼくりりさんの歌詞の中にも、〈どうせ全部蜃気楼と大差ない選民思想〉(「Be Noble」)〈淡い劣等感もとうに褪せ甘いゲットーが顔を出す〉(「Newspeak」)とありますが、韻を踏むという神様の指令を守ることで「蜃気楼」と「選民思想」、「劣等」と「ゲットー」という、本来であれば非常に遠いところにあるはずの単語が接続されますよね。

ぼくりり:外部を守ることで、神様と約束するんですか! それってめっちゃ面白い。

◇異次元のカニクリームコロッケ?

ぼくりり

“そんなことを考えて生きていくと、ご飯を食べたり、街を歩いてるだけでひと苦労ですよね”

穂村

“遠い昔、僕も、大人たちの世界観から存在するだけで迫害される自分はミュータントなんじゃないかと妄想していた”

ぼくりり:穂村さんはTwitterはされていないんですか? 140文字という制約は、ある意味で短歌ですよね。

穂村:もしTwitterが31文字だったら、日本中がみんなそれでツイートするわけだから、歌人だらけになったはずですね(笑)。俳句の人たちは17文字に設定したかったでしょう。でも、Twitterの文字数が適していて、あの長さで連続的にネタを書ける人っていうのも存在する。メディアができたことで才能が顕在化する。

ぼくりり:Twitterは見られますか?

穂村:見ますよ。本人も意識していない、天才的な言語感覚の中高生を探して、そういうツイートをよく読んでいます。

ぼくりり:それは中高生ってわかるものなんですか?

穂村:なんかわかるんですよ。若い人、だいたい女性が多いですね。以前、エッセイに書いたこともある話だけど、「キニキリームキロッキ」って一言だけをツイートしている人がいて。

ぼくりり:キニキリー?

穂村:キニキリームキロッキ。その呪文のような言葉の意味が知りたくて、その人のツイートをさかのぼっていったんです。そしたら、2週間前くらいに「今日のご飯はママのカニクリームコロッケ。カニクリームコロッケにはカ行のすべてが入っている。でも『キ』だけ入っていない。かわいそう」っていうツイートを発見して。

ぼくりり:あー! なるほど、カ行を全部「キ」に。

穂村:そう。その人は2週間後に「キ」を励ますために「キニキリームキロッキ」という異次元のカニクリームコロッケをつくってあげたんです。それを見たときに、ぼくはその愛の心に打たれました。そんなことをする人が、大人であるはずがない。

社会に出たら、そういったことにどんどん意識が向けられなくなっていくんです。ずいぶん前に電車に乗っていたとき、目の前にいた部長さんみたいな男性が「女はみんなピンクが好きだからな」って言った。そしたら横にいた新入社員みたいな男の子が「部長、きみどりが好きな女性もいるんですよ」って教えてあげたんですよ。そしたら部長は「そんな女がいるのか!」とビックリしていた。

キニキリームキロッキとつぶやいた人の解像度が最も高いとすれば、部長のそれは低すぎる。世界像のドットが荒すぎますよね。べつに部長に悪気があるわけではないんですよ。彼のせいじゃなくて、営業部長とかに出世するまでには、解像度を低くしないとサバイバルできないようなプレッシャーがあったと思うんです。かわいそうな人なんです(笑)。でも、ドットの荒い状態のまま定年を迎えて、社会人じゃなくなってしまったら、どこにも行き場がなくなってしまう。だって、そんなおじさんイヤじゃないですか? そうなってしまったら、取り返しがつかないんです。

一方で、「キニキリームキロッキ」と言った女の子が28歳のOLになったとして、そのときにもし同じことを言っていたら、それはそれでキツいと思いませんか?

ぼくりり:生きづらいってことですか?

穂村:ええ、社会的なサバイバルが困難というか。たぶん28歳になった彼女の心の優先順位では、彼氏との関係や、友だちとの海外旅行や、新しいコートのことが大切になっている。でも、「キニキリームキロッキ」と言えた頃の世界には、彼氏や海外旅行やコートは大きなものとしては存在していないんだと思う。

ぼくりり:そんなことを考えて生きていくと、ご飯を食べたり、街を歩いてるだけでひと苦労ですよね。感性のセンサーがあらゆるものに反応してしまいそうです。

穂村:でも、素敵ですよね。もしもキニキリームキロッキ的な感性がそのままだったら、表現にしか行き場がなくて、その人はクリエイターになるしかない。会社の会議中に「部長、それではキがかわいそうです!」なんて言ったら、もう仕事にならないんだから。

ぼくりりさんの歌詞が中高生に人気なのはわかる気がします。ディストピア感の中で、ドットの細かい自分たちの感受性が、いつか破壊されることが予見されている。遠い昔、僕も、大人たちの世界観から迫害される自分はミュータントなんじゃないかと妄想していた。今に見ていろ、夢でこの世界をばらばらにしてやるっていう感覚は、いつの時代にもあったんじゃないかなって。

『Noah’s Ark』を聴きこむにつれて、言葉は屈折しているけど、歌っている内容はずいぶん真っ直ぐなんだなという印象が強くなりました。「一緒にこの時代をサバイブしよう」って呼びかけていると、そんなふうに感じたんです。

ぼくりり:ぼくたちのキニキリームキロッキを守るんだと。そういう感覚で聞いてもらっていたら面白いですね。

Text_Potato Yamamoto